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​我は日本人なり

​元外交官が伝える

海外へ渡っても祖国愛を持ち続けた

二人の日本人

日本のために力を尽くした

「フレッド​​・勇・和田」「杉本鉞子」の生き様に迫る!

“日本が好きで好きでならんのです”

東京オリンピックを実現させた日系アメリカ人
フレッド・和田・勇
1964年に開催された東京オリンピック。
太平洋戦争の敗戦によって、国の威信と誇りを失っていた日本。新幹線、カラーテレビ、高速道路の整備など、様々な開発が進み、急速な経済成長を遂げ、日本が戦後、国際社会の中心へ復帰を果たそうとしていた頃。国が総力を挙げて取り組んだ東京オリンピックは、まさに日本が誇りを取り戻すきっかけとなった。
 
この東京オリンピック開催は、ある人物の存在なくしてはありえなかっただろうといわれている。その人物こそが、「フレッド・和田・勇」
ワシントン州ベリングハムで、小さな食堂を経営していた夫妻の元に生まれた和田。食堂の経営が苦しかったことから、4歳の時に口減らしのため和歌山県に住む母方の祖父母の元に移る。5年後に米国の実父の元に戻るものの、実母は他界し生活は困窮。12歳になると牛乳配達や雑役夫をしながら学校に通うといった、苦労の絶えない幼少期を過ごす。

17歳の時、農作物の小売りチェーン店で働き、一年で店長に抜擢され、21歳の時には自ら農産物店を開き、日系人社会で一躍注目されるようになる。しかし、その後太平洋戦争が勃発。アメリカ西海岸に住む日系人の強制収用を逃れるべく、近隣市民とともにユタ州へ集団移住。荒れ地を開拓して農業を始めるも、多大なる苦労を余儀なくされた

戦後はロサンザルスで青果店を開き、きめ細かい顧客サービスで順調に事業伸ばしていった。

敗戦の色が残る日本だったが、日本水泳連盟が国際水泳連盟に復帰加盟し、1949年全米水泳大会への日本人選手の出場が実現。「全米水泳選手権出場のため、渡米してくる日本人選手の世話をしてくれる日系人を探している」という記事を目にした際、自ら申し出て自宅を提供して日本人選手を支えた。敗戦国である日本への風当たりが強い中、和田の支えもあり、日本水泳チームは、世界記録を次々と打ち破り、9種目で世界新記録を樹立して日本中に明るいニュースをもたらすことになった。

その後の昭和33年(1958年)、日本水泳連盟会長から、1964年に東京でオリンピックを開催したいという話を聞かされた和田は、東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、妻・正子と二人きりで中南米10ヵ国を行脚し、東京支持票を取りまとめ、東京にオリンピックを招く原動力となった。

終戦後外貨に乏しい日本スポーツ界のため、中南米訪問にかかった費用はすべて自腹で賄い、一切の見返りを要求することなく、無償の「祖国愛」を発揮。

見事、東京でのオリンピック開催を実現させた。

アメリカ生まれの日系人であるフレッド・和田・勇。
なぜ彼は、祖国である日本のために情熱を燃やし、尽くし抜くことができたのか?​その原動力に迫る。
日本とアメリカという異質な文化と歴史を持つ、二つの国に暮らした自身の半世紀を綴った『武士の娘』。
アメリカ国内でベストセラーとなり、その後、フランス、イギリス、スウェーデン、ドイツ、デンマーク、フィンランド、ポーランドの七カ国で相次いで翻訳・出版された。
武士道の教育を骨の髄まで受けた日本女性であるからこそ、アメリカ生活の中で書き得ることのできた杉本鉞子の『武士の娘』は、現代に生きる私たちが、改めて読み返したい一冊である。
生家の稲垣家は旧長岡藩の家老職を勤めた家柄で、父も国家老の一人であったが、幕末に河井継之助と対立し、藩の役職を追われ、明治になり禄と格式は失うこととなった。しかしながら、一家の日常にも地域の暮らしにも、まだ維新前の風俗習慣は色濃く残っており、そのなかで成長した鉞子は、江戸期の武家の躾や物の見方を身につけてゆく。
まだ男女の育て方がはっきりと分かれていた時代にあって、鉞子は、裁縫、生け花など女子本来の躾のほか、通常は男子の学問である漢籍の手ほどきを、受けることができた。

鉞子の父は、日本の将来に理想を抱き、新しい変化を進んで受け入れた。そんな父の広い視野、物の考え方が、後の鉞子に大きな影響を与えた。鉞子十歳の秋、そんな父が病で亡くなったことで、一家の運命は大きく変わることになる。

父の死後、鉞子が物心つく頃から家を出ていた兄から請われ、鉞子が十二歳になったある日、兄の友人である、杉本松雄という在米の青年実業家との縁談が決まり、彼女はアメリカへ嫁ぐことになる。

渡米までの間、東京のミッション系の女学校に入学した鉞子は、西洋人教師たちの考え方に引かれるようになってゆく。それと同時に、厳しく教え込まれた男尊女卑の考え方や、女性に課せられて来た忍従の習慣に対しての、疑問と悲しみを抱くようになる。 そんな思いが、彼女にキリスト教入信の道を選ばせ、卒業までに受洗した。 そして、四年間の学業を終え、鉞子は単身アメリカへと旅立った。

Books

“アメリカと日本がふたたび友人同士

になる日が来るように祈ってます。”

日本とアメリカの架け橋となった武士の
​杉本鉞子

異国での慣れない結婚生活が、次第に落ち着いてくると、鉞子は文化の差異に対する興味が増していく。お金に対する考え、 美の感じ方、雇用者と召使の関係、男女の関係などなど。

この頃に出会ったのが名家の未亡人、フローレンス・ウィルソンだった。彼女は杉本夫妻と共に暮らし、一家の生涯の良き理解者であり、庇護者となる。鉞子が「母上」と呼んで慕ったこの女性との出会いが、鉞子の人生で最も幸運な出来事であった。 

そんなアメリカでの生活の中で、鉞子は長女、次女を出産。幸せな暮らしが続くと思われた矢先、夫松雄の事業が失敗し、アメリカを離れ日本へ帰国することとなる。その後松雄は病に倒れ、帰らぬ人とななった。鉞子は、長女が十五歳になるまで日本に留まった後再び渡米し、生活のために新聞・雑誌に投稿を続けたものが、作家のクリストファー・モーレーの目に留まり、日本の生活を紹介した『武士の娘』を、雑誌『アジア』で連載スタートさせた。

その後は、コロンビア大学の教壇で日本語と日本史を、日本人女性としてはじめて教え、戦争をはさんで、『武士の娘』以降3冊の本を書いた鉞子は、その生涯を閉じるまで日米の架け橋となった。

 

アメリカでは有名人、日本では無名のベストセラー作家杉本鉞子の生涯は、ますます国際化する日本を生きるヒントを与えてくれるのではないだろうか。

In The Press

我は日本人なり

元外交官が伝える

海外へ渡っても祖国愛を持ち続けた

二人の日本人

竹元 正美 著

600円(税込)

著者プロフィール

竹元 正美(たけもと まさみ)

 

一般社団法人国際文化教育協会理事長。

1970年早稲田大学卒業、外務省入省後、ヒューストン総領事、ホンジュラス大使、ウルグアイ大使など歴任。

41年にわたる外交官生活の間、韓国、豪州、タイ、スペイン、米国、ホンジュラス、ウルグアイでの海外勤務。

ホンジュラス在任中の2003年には、教育の大切さを唱えた「米百俵」(旧長岡藩=新潟県長岡市=の故事)の精神を、

同国の大統領や文化相に進言した結果、ホンジュラスの人々がスペイン語による劇を舞台で演じ、コスタリカなど近隣国でも上演される。

国内では、外務本省での儀典官などの他、宮内庁で東宮侍従なども務める。

2011年外務省退官後、一般社団法人「国際文化教育協会」を設立し、外交や皇室の話などについて大学で講座を持ち、

各地で講演を行うなど、文化、教育の振興に努めている。

1970外務省入省

 71米ニュージャージー州ドゥルー大学大学院入学

 73外務省アメリカ局安全保障課

 78中近東アフリカ局、経済局などを経て韓国大使館一等書記官

 80豪州大使館一等書記官

 82欧亜局西欧二課首席事務官

 86宮内庁東宮侍従 皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)や浩宮さま、礼宮さま、紀宮さまに仕える

 88外務省経済局海洋課長

 89大臣官房儀典官 即位の礼で外国賓客の受け入れ

 91タイ大使館公使 両陛下ご訪問

 94スペイン大使館公使 両陛下ご訪問

 97宇宙開発事業団国際部参事

2001ホンジュラス大使  「米百俵」の演劇

 04宮内庁式部副長  両陛下の国際関係担当

 07ウルグアイ大使  日本人移住100周年記念式典

 10外務省特命全権大使(査察担当)

​ 11外務省退職。一般社団法人国際文化教育協会理事長。現在に至る。

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